7/30に亡くなった「台湾の父」スーパーマン李登輝氏

台湾ニュース

こんにちは、台湾のゆっこです。

7月30日、台湾の元総統が亡くなりました。97歳だったそうです。

台湾史をほとんど知らない私は、ニュースを見たときに、”偉かったおじいさんが亡くなった”くらいにしか思わなかったのですが、
調べてみると偉いどころか、「台湾の父」であるスーパーマンだったことが分かりました。

スーパーマン李登輝は、日本にも大変ゆかりが深い人物でした。

私なりに、李登輝さんの人生を追ってみようと思います。

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李登輝さんの歴史

李登輝は1923年(大正12年)に、新北市三芝区で、次男として生まれます。

三芝区は、レベルが高いストリートミュージシャンの音楽が聴ける淡水の北に位置します。


李金龍という、少々いかつい名前のお父さんの職業は警察官でした。
ちなみに客家の一族だそうです。

お父さんの転勤の都合で、小学生時代は4回も転校をします。

(転校した地が汐止や南港だったりして、私もなじみ深いエリア。勝手に少しお近づきになった気分に)

経済的に恵まれていたおかげで、幼少のころから良い教育を受けて育った登輝少年。

中学校は首席で卒業、台北高等学校(レベルが高そうな名前の通り、超名門校)に入学します。

高等学校では、日本統治下にあった影響で、1年生の時に「岩里政男」に改名します。

いわさと まさお

これまた、お父さんの「金龍」に負けず劣らず屈強そうな名前ですね。

(改名時、師父が絡んだのかが地味に気になる…)

高校時代に、台北のある図書館で農業経済学者である新渡戸稲造の著書に出会い、それをきっかけに、農業経済学を学ぶようになります。

中でも新渡戸稲造の著書『武士道』に大変関心を持ち、研究をして、のちに自身も『武士道の』解説書なる『「武士道」解題』を出版しています。

お堅そうなので私はちょっと手が出ませんが、もし読まれた方は内容を教えてください。



高校卒業後、1943年10月に、京都帝国大学の農学部農業経済学科に進学します。

いちいち優秀な学校名が登場しますね。

裕福な家庭に育った登輝は、幼いころに、小作人の貧しい生活を目の当たりにして、社会の不公平をなくしたいと思ったそうです。また、農業の問題は台湾の将来に深く関わってくるという予測もしていたそうです。

大学進学後は戦争が激化し、学徒出陣により出征します。台湾で訓練を終えた後、名古屋の高射砲部隊に陸軍少尉として入隊し、そのまま名古屋で終戦を迎えることになります。

(名古屋!!私が台湾に引っ越す前に住んでいた地なだけに、また少しお近づきになった気分に)

戦後は台湾へ戻り、台湾大学農学部農業経済学科に編入し、1949年に卒業。

同年に淡水の地主の娘、曽文恵さんとお見合い結婚をします。

奥様も李登輝本人も、日本語を堪能に話しました。登輝は、「21歳(1945年)まで日本人だった」「難しいことは日本語で考える」と公言していました。

(難しいことは英語または中国語で考える、と言ってみたい)

さらに、アメリカ留学を経て、政府組織で働いたり、台湾大学の講師をしたり、キリスト教に入信したり、またアメリカ留学をしたり。。。

そして、1971年(登輝48歳)のときに、政界へ足を踏み入れます。



1978年、台北市長に任命されます。

(私はこの年にオギャーと生まれました)

当時は市民による選挙はなく、国民党の独裁時代だったのですが、登輝は総統の蒋経国の目に留まり大抜擢されたのです。

蒋経国は、国民の言論の自由を奪い国民を弾圧するという邪な側面をもつ一方で、台湾のインフラ整備をすすめ、経済発展の基礎を築いたという善な側面ももつ人物。

蒋経国は登輝の能力を買って、大抜擢したものの、政治経験に乏しい登輝のことが心配でならなかったそうで、たびたび市長官邸にやってきたそうです。

そこで登場、文恵夫人。

登輝が帰ってくるまでの間に、ツバメの巣で美味しいデザートを作り、蒋経国に振舞ったそうです。蒋経国は大変喜んでデザートを食べて、登輝が帰ってくるのを待ち、市政の話を聞くというのが常だったそうです。

文恵夫人はのちにこう語っています。

「いくら主人が市長だっていったって、私がしゃしゃり出て蒋経国さんとお話しなんかできないもの。甘いものをお持ちしますから、といえば台所に逃げられるし、食べている間はおしゃべりしなくても済むでしょう?」

引用 「日本の教養」をまとった李登輝夫人の素顔 早川友久(李登輝 元台湾総統 秘書)著

なんてキュートでウィットに富んだ奥様でしょう。

そして、台湾省政府主席、副総統、総統へと歴任していくことになります。

李登輝さんの功績

「台湾民主化の父」、「ミスターデモクラシー」と呼ばれるように、李登輝はゴリゴリの独裁体制だった台湾を、民主主義へと導いたスーパーマンです。



李登輝が自らこう語っています。

「台湾の民主化を進め、台湾の人間を愛した人物と評価されれば幸せだ」

この言葉に全てが込められているように感じました。

李登輝は、台湾の独立ではなく、自立を目指して奔走しました。

(自立、私の大好きな言葉。李登輝の伝記があるなら読んでみようか…)

中国から完全に独立するのではなく、一定の距離を保ちつつ、交流は続けるという路線でした。

1996年には、総統選挙を実現させ、自ら当選します。それを皮切りに、台湾に選挙という民主制度を定着させていきます。

独裁政権に弾圧されて、言論の自由もなく、国のトップも自分たちで選べなかった辛い時代が長かったからこそ、台湾の人々は選挙に高い関心を持っているのですね。

李登輝はそのような大きな改革を、数十年という時間をかけて起こしました。

静なる活動で、国民の意識を少しずつ変えることで、中国が気付いたときには台湾人の中にはすでに、「私たちは中国人ではなく、台湾人である」という自覚が根強く芽生えていました。

もし、改革を一気に行おうとしたなら、中国に気づかれ制圧しようとしただろうし、国民の意識も変わらなかったかもしれない。

李登輝は、多角的に現実を捉え、相手の出方も予測し、先を見越す能力と忍耐力にも長けていたのですね。

いわば、台湾人のメンターですね。



そんな、台湾人のマインド改革の他にも、台北市長時代には、水不足対策として、台北の水がめとなる翡翠ダムを建設しています。

また、台湾省主席時代には、農業の発展と稲作転作などの政策を推進しました。

ソフト、ハード共に台湾のため、台湾国民のために人生を捧げたような人物で、スーパーマンっぷりが過ぎます。

蔡英文総統は、安倍首相のツイートに対して、日本語で次のように返信しています。

台湾の民主化と台日友好に尽くした李登輝元総統の功績をたたえてくれたことに感謝します。台湾はこれからも民主と自由の理念を掲げ、日本をはじめとする、理念の近い国々との協力関係を深めていく考えです。

李元総統が願い続けた台日友好とアジアの民主主義を、私たちがしっかりと守っていきます。

引用 蔡英文公式ツイッター


偉大な人物の死により、今までほぼ無知だった私は歴史や政治に関心を持ち、色々と調べました。そして、私のような人は少なからずいるのではと思います。

死してなお、人々に影響を与え続ける李登輝さん。

安らかにお眠りください。アーメン。

コメント

  1. メイフェ より:

    李登輝さんがいらっしゃらなかったら、今のような日本と台湾の関係はなかったでしょう。
    すると私も今のように台湾に住んでいることはなかったかもしれないな・・・と
    自分の人生にも大きな影響を与えた方なのかもしれない・・・そんな気持ちになります。

    キンコン西野さん聴きました!面白いし、なんだか素敵な人♪
    ごはんを作りながら聴いていたのですが聞き入っちゃって手が止まりました。
    実はゆっこさんのブログで教えていただくまで全然知らない方でした。
    すっかり浦島花子な私。
    芸人さんって才能豊かな方が多いですよね・・・
    やっぱり頭の回転が速くないと面白いお話などもできないんだろうな~。
    絵本も見てみます!

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